2020年 2月 21日

故郷にてほっと一息ついて寝落ちた私の夢枕に立ち、すれ違いざま声を投げかけて去った誰か(ご先祖様か?)の言葉が頭にこびり付いて離れない。

「時間の流れなんてもんはそもそも無いんよ。有るのはいつも今だけや」。

夢の中でそれを聞いた僕は、瞬時にそのことが腑に落ちて妙に気分が高揚とした。

人類が人(ホモ・サピエンス)としての意識基準を獲得したのが一体いつ頃なのか。それはよくは知らない。(例えばそれがアダムとエバでも構わないとして)、以来、何千何億兆の人の死が累々と折り重なって今日の私が今を生きる。

すでに過ぎ去った人の時間の味わいと、私が今ここで過ごす時間の味わいが、人の意識の本質において何ら変わるところがないとすれば、実のところ時間とは、ただ折り重なっているだけのものであり、人類はいつも膨大な「今」を共有し合っているのだ。

いつの時代の人も「今」しか見ることは出来ず、その「今」を味わうことしか出来ずに過ごして、いずれ世を去る。

とどのつまり歴史とは、今を過ごす人が縦に連なっているに過ぎず、人の意識の味わいという基準値においては今も昔も変わりはなく、ただ平面に広がりが増し加わっただけで相変わらず、きっと人は人なのだ。

縦的に折り重なった過去という歴史は、今を基準にして横的に展開しているに過ぎないということだろう。

その理屈の意味するところは、過去を生きた人の全てが、今という時間軸の中で私の周りの彼方此方に今日も生きているということだ。

過去に生きた人が、今なお私と共に生きている。

例えば、今日すれ違ったあの人は、きっと七代前のあの先祖で、隣の迷惑なあの人はきっと四代前のあの先祖だったりするに違いない。

時間が本当は虚ろなもので、実はその実体なんてものがまるで嘘っぱちであるとするなら、

その思念の行き着くところの真理とは、

所詮は、「私はあなたで、あなたは私」であるという気づき。

だから私は、私の墓標に斯く刻んで謎かける。

「さてさて、ここに眠るは一体誰なのでしょうか?」、と。

死とは、この世の「今」に止まれなくなることを言う。

それは同時に、現在、過去、未来という時間軸からの解放を意味する。

さて、人は死を迎えたそのあと、果たしてどうなってしまうのか。それについては、今はまだ語るまい。

だけどきっと、私という者(意識体)もあなたという者も、いつもどこかで生きていて、何度も何度も袖触れ合っているに違いない。

だからあなたとは、いつかまた何処かできっと出会えるさと、私は信じて生きて行く。

いつも私と出会ってくれてありがとうと、微笑みながら。