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エマ通信

2022.05.15

沖縄本土復帰50周年

『沖縄本土復帰50周年』に寄せて

1963年の8月。
まだアメリカの統治下にあった沖縄の石垣島で僕は生まれた。
その2年後、父は島を離れる決断をし、メリヤス工場を営む実兄を頼って大阪市内へと移り住むことになる。
そして父は、僕が8歳になる春(1971年)にはじめて家族四人揃っての里帰りを果たした。
当時、沖縄への渡航にはパスポートを必要とし、予防接触も行わなくてはならず、家族を伴っての渡航には煩わしさも多かったことであろう。
まだ時は、1ドル=360円の固定相場制時代であることを思えば、相当な出費を余儀なくされたことだろう。

その当時の石垣島の海は、そこはまるで竜宮城の様であった。
母の生まれた小さな離島(鳩間島)は、それはさながら天竺の様であった。
海はどこまでも澄み渡り、群生する珊瑚のグラデーションに目が眩み、
所々ぽっかり割れた水底の裂け目は限りなく漆黒で呑み込まれてしまいそうで子供には空恐ろしかった。
海は浅瀬にも潮溜りにも色とりどりの生き物がひしめいていた。
離島の御嶽ではオジィから古典民謡を教わった。
戦災で両眼の潰れた皺枯れ声のオバァは、涙を流して僕を抱きしめてくれた。
それはまだ本土復帰(沖縄返還)前のふるさと八重山での幼い僕の鮮烈な体験。

その頃はまだ日本のそこかしこに戦争の爪痕がしっかり見てとれた時代でもあった。

島の繁華街は毎日賑やかで、三線を奏でる傷痍軍人さんからは琉球切手を買い求めた。
1セント銅貨を握りしめて右側通行のボンネットバスにも乗った。
喉が渇いた時は、「アイスワーラーちょうだい!」と、普通に言っていた。

本島最後の激戦地、摩文仁の丘から眺めた当時の海は、まだまだ米軍の駆逐艦や潜水艦で埋め尽くされていた。
慰霊碑へと向かう道もまだまだ整備はおぼつかず、所々の塹壕(がま)はどこも生々しい気配が色濃く漂っていた。
幼い僕の手を引きながら父が言うには、「この辺は最近まで人の骨がゴロゴロしとったんや」。
道道、観光客相手のオバアの小商いがあって、幼い僕はゴザの上に置かれたロザリオをなぜかおねだりした。

その次に帰郷したのは中学に上がる前だったか、その時の記憶はなぜかあまり鮮明ではないけれど、海でイカの投げ釣りをしたが何も釣れなかった。
ただそれ以降、帰省するたびに海の色がだんだんくすんで行くのはなんとなく感じていた。
海岸線が大規模に剥(へず)られていったのは80年代に入ってからだろうか。
赤土が海を染め、アスファルトには生き物の死骸が無惨に転がり、こんな小さな離島にアスファルトの一周道路がなんで必要なのだろうと、怒りを覚えた。
沖縄の復興を謳った開発行政は、自然への配慮を欠いたまま土建業をおおいに潤した。
幼い僕の記憶に刻まれた海は、今はもう見る影もない。
海亀は産卵場所を失い、ジュゴンの人魚伝説は今となっては空々しい。
併せて昨今は異国からの漂着ゴミが夥しい。

自然を護れと言うのなら、本当は50年前から声を上げるべきであった。

昔、魚釣島と言って釣り人が悠長に糸を垂れた尖閣は、今やお向かいの国からは核心的利益の島と目されて物騒な船がやたらめったら横行する。
厄介なのは、その国のイデオロギーは人権を平然とないがしろにし、あまりにも無慈悲に人命を殺めてきた歴史的事実を孕む国であることだ。チベットやウイグルの悲痛は今以て進行中だ。

悲しいことにこの島は、いつの世も地政上の負の宿命を背負う。
80年前の幼き日に艦砲射撃から逃げ惑った思い出をうちの父は語った。
そして大人も子供もマラリヤに震えながら、大半が栄養失調で亡くなっていったことも。

戦争なんて真っ平御免だ。
憲法前文も9条も素晴らしい理念を語りはするが、もしも敵が命を奪いに攻めて来たらばどうすべきかの言及がない。
平和を希求する全ての諸国民の公正と信義に信頼して生きる道を決意するのであれば、我らは丸腰となって左の頬をも差し出すべきであろう。
護憲を声高に叫ぶなら、たとえ肉弾で砕けたとて最後は魂で立ち向かい魂で全てを凌駕する者となるべきを訓えておいた方が良い。

腹を探りあったり、裏で工作したり、嘘を吹聴したり、強権を強いたり、そんなことは僕は苦手だしご免だ。
たとえ他所の国の兵隊さんが銃剣をちらつかせようと、厄介な重火器を打ち上げようと、
僕は僕の小さな日常を丁寧にやり過ごすだけで精一杯だ。
泣こうが喚こうが、大きく生きようが小さく歩もうが、人は所詮、心の存在だ。
心を豊かに通わせ合える人が一人でも側に居れば、どんな困難をも越えて行けそうに思える。
小さな生活圏内で日々の暮らしに埋もれて生きることを余儀なくされるか弱き大人である私ではあるが、たとえ今、世界が終わろうとしていても、私は私の今日の生業に心を尽くす。
そして黙して小さくではあるが懸命に世界の平和と安寧を祈るのみである。

沖縄戦の終結は、1946年の春。
私が生まれたのは、その17年後。
そして本土復帰は、26年後(1972年)のこと。
私の小商いの歳月は、17年。
だけどきっと歳月とは長さの問題ではない。
体の中の血が最後の一滴になるまで懸命に生きようとした純真な人々の心は必ず永遠性を宿す。
先ずは今日という一日にありったけのま心を尽くす。その日めくりカレンダーこそが、いつかすべてを穿つ日を迎えることだろう。