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エマ通信

2015.11.16

渇望

「神」と言う言葉を字面から解読するに、
「示」プラス「申」という構成からして、
「申し示すもの」となります。
新約聖書のヨハネによる福音書1章1節にある通り、
「初めに言葉があった。
言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。」
の如しです。

「言葉は神である」とは即ち、
「凡ゆる存在は神の言葉があって創造された」
事を意味します。

「神の言葉」=「神からのメッセージ」。

では、神の言葉を直接聞いた事のあるやなしや?
何が神の言葉であるのか?
すなわち、その解読を託されているのが私たち「人間」であり、
その解読の道にこそ人間の生きる使命があるのだと思う次第です。

その解読を成す為に人間に与えられた特殊能力、
それこそが「知性と霊性」であると僕は考えています。
この能力の崇高さにおいて他の動物の追随を許さない、
万物の霊長とも位置付けされるのが私たち「人間」です。
知性も霊性も極めて人間的な心の働きであると僕にはには思われます。

断っておきますが、僕は宗教家でも特定の信心を信仰する者でも
何でもありません。
ただ、僕のアイデンティティーの前提として、
この宇宙の森羅万象を創り給うた
永遠不変唯一絶対の第一原因者が存在しており、
その存在にはこの宇宙を創造した何らかの意図がある。
すなわち、天には「み意(こころ)というものがある」。
その事を頑なに信じる立場に立っています。

ですから「私」という存在は、どこまで行っても
その原因者による結果的な存在にしか過ぎず、
その結論の故に、私はいつもその者(=第一原因者)に問われ
答えを見出す努力をし続ける立場に立つ者であると考えております。
(第一原因者はそう簡単には答えを教えてくれない)

故に、始めに帰ります。
「私」は、神によりて創られた者です。
神の言葉によりて命を吹き込まれた者。
神のメッセージを託された者。
名もなき小さき貧しき者なれど、
その言葉に耳を傾け、
その言葉に従い歩み行く人生を過ごしたい。
であるからこそ、
私は今日も人生の意味を強烈に渇望するのです。
何があろうとも根源者に問い続けるのです。

「ワタシハ ドウスレバ アイセルヨウニナリマスカ.
ドウスレバ ユルセルワタシニナレマスカ.」

「愛せる私になること。
赦せる私になること。」
人生で大切なことは、たったそれだけ。

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