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エマ通信

2024.11.06

秋の頃

樹々が色づくと思い出すこと。

もう10年以上前になるが、50歳を前にして初めてフルマラソンにチャレンジしたことがある。
きっかけは元気者のお客さんに強烈に誘われたから。
当初は42.195キロという気の遠くなるような距離に怖気付いたけれど、その方の再三に渡るサジェストにまんまと乗せられて、最初で最後と覚悟を決めてエントリーした。
本番まで事前の練習期間は既に半年を切る中、毎朝、鶴見緑地公園までの往復6キロの距離を懸命に走り、いざ臨んだ本番。
無事に完走し、タイムは確か4時間16分。初めてにすればまずまずの結果だとは思うが、走り終わった瞬間、もう二度と走るまいと誓った。
ところが、おかしなことに、変なホルモンが分泌されるのか、時間が過ぎるにつれ体がまた走りたくてうずうずし出すのだ。
結局、以後、5年に渡ってフルマラソンを5回、ハーフマラソンを3回、最後はウルトラマラソン(100キロ)までチャレンジするハメになったのだった。
そんな中でマスターが一番思い出深いのが、

「鯖街道勝手にお礼参りわっしょいマラソン」。

急峻な鯖街道を越えて、距離にして77キロを門真蓮根を奉納する為に走るという企画。
我ながら、アホな自主企画だったと感心する^^;が、毎年11月のこの時期に3年に渡って継続して走ったのであった。
以下はその時のマスターの感想文です。

〈2015年11月6日の記事より〉
マスターは、たとえ一人になっても走ろうと思う。
意味の有る無しは、そんなものは
あと付けでなんとでもなるさ。
「私が今ここに在る」ことのそのリアルを、「走る」という行為を通して単に確認したいというだけのハナシ。

走れば、喉も渇く、腹も減る。
靴も磨り減り、身体も軋む。
時間は蕩尽(とうじん)され、場所も移ろう。
投入するという行為の純真さそのものに自分を乗せ込み、そして自分を吐き出す。
吐き出すことで新たに宿すものを見つめ味わう。

山の風に震えたり、
峠の坂道では激しく息を切らせ、
もしかしたら冷たい雨に打たれて
体もカチコチに強張るかもしれない。
笑うこと、泣くこと、傷つくこと、驚くこと、後悔すること、怒ることだって、こもごもあるかもしれない。
そんなことの全てに自分を素直に純真無垢になって晒してみる。
そこから何かを得るという話ではない。

時折訪れる心の疼きや渇き、
過剰な情緒から離れて、
ただただ在るべき姿でそこに在りたい。

頭は考え過ぎる。
心は過敏に過ぎる。

現代人は、食うこと貪(むさぼ)ること考えること等々、ちっぽけな体に溜め込み過ぎてはいないか?

所詮、立って半畳寝て一畳。
生身の体の体当たり。
そんな取るに足らぬ「私」であることは、実はとても愛おしいことではないのだろうか。

敢えてそこから何か意味を学び取るとするならば、

私が今在ることへの奇蹟と感謝。
そして君が今、そばに居てくれることへの奇蹟と感謝。

生きることの上手い下手はこの際
問うことなかれ。
人生は、「ただそこに在る」というそれだけで実は報われているのではと感じてみる。

今日もそんな私を見守ってくれているあなたが、ただ愛おしくてありがたい。
それこそが私の収束地であり走るゴールだ。

Life is “stand by me”.

(クソみたいな人生に絶望するその前に、走ってみるのだ。)