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エマ通信

2024.11.17

無題

今回の兵庫県知事選の背景を知るに及び、なんだかやるせ無い思いに駆られてしまいました。
以下は、知事選とは関係のない私の思いつくままの取り留めのない駄文ですが、長いので、興味ある方だけどうぞ^ ^
写真はマスターが始めて帰省した折のものです。

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思兼(おもかね)の子の三戸(さんど)の子の智良久(ちらく)の子の永金(えいきん)の子の私永勝(えいかつ)です。
私は、1963年の8月、まだアメリカの統治下にあった沖縄の石垣島で生まれました。その2年後、父は島を離れる決断をし、メリヤス工場を営む実兄を頼って大阪市内へと移り住むことになる。
そして父は、僕が8歳になる春(1971年)にはじめて家族四人を伴い里帰りを果たした。
当時、沖縄への渡航にはパスポートを必要とし、予防接触も行わなくてはならず、家族を伴っての渡航には煩わしさも多かったことであろう。時は、1ドル=360円の固定相場制時代であったことを思えば、相当な出費を余儀なくされたはず。
当時の石垣島の海は、そこはまるで竜宮城の様であった。
母の生まれた小さな離島(鳩間島)は、それはさながら天竺の様相であった。海はどこまでも澄み渡り、群生する珊瑚のグラデーションに目が眩み、所々ぽっかり割れた水底の裂け目は子供には空恐ろしくてどこかに連れて行かれる感じがした。海は浅瀬にも潮溜りにも色とりどりの生き物がひしめいていた。
御嶽ではオジィから古典民謡を教わった。戦災で両眼の潰れた皺枯れ声のオバァは、僕を抱きしめ涙を流した。それはまだ本土復帰(沖縄返還)前のふるさと八重山での幼い僕の鮮烈な体験。
当時はまだ、日本のそこかしこで戦争の爪痕がしっかりと見てとれる時代でもあった。
石垣島の繁華街は毎日賑やかで、三線を奏でる傷痍軍人さんからは琉球切手を買い求めた。1セント銅貨を握りしめて右側通行のボンネットバスにも乗った。喉が渇いた時は、「アイスワーラー(冷や水)ちょうだい!」と、普通に言っていた。
沖縄本島でも数日を過ごした。
本島最後の激戦地、摩文仁の丘から眺めた海は、米軍の駆逐艦や潜水艦で埋め尽くされていた。
慰霊碑へと向かう道もまだまだ整備はおぼつかず、所々に残る塹壕(がま)はどこも生々しい気配が漂っていた。幼い僕の手を引きながら父が言った。「この辺は最近まで人の骨がゴロゴロしとったんや」と。道道、観光客相手のオバアたちの小商いがあって、幼い僕はなぜかゴザの上に並べられたキリストのロザリオをおねだりした。
その次に帰郷したのは中学に上がる頃だったか、その時の記憶はなあまり鮮明ではないけれど、天気が悪く海は鈍色(にびいろ)で、イカの投げ釣りをしたが何も釣れなかった。ただそれ以降、帰省するたびに海の色がだんだんくすんで行くのはなんとなく感じていた。海岸線が大規模に剥(へず)られていったのは80年代に入ってからだろうか。赤土が海を染め、海辺には生き物の残骸が無惨に転がり、こんな小さな離島にアスファルトの一周道路がなんで必要なのだろうと怒りを覚えた。
戦後復興を謳った開発行政は、自然への配慮を欠いたまま土建業者をおおいに潤し、もちろんお陰で島の暮らしは豊かに活気付いていった。
だだ、幼い僕の記憶に刻まれた海は今はもう見る影もない。海亀は産卵場所を失い、ジュゴンの人魚伝説は今となっては空々しい。併せて昨今は異国からの漂着ゴミが夥しい。自然を護れと言うのなら、本当は50年前から声を上げるべきであったが、今となってはもう取り返しはつかない。
昔、魚釣島と言って釣り人が悠長に糸を垂れた尖閣は、今やお向かいの国からは核心的利益の島と目されて物騒な船がやたらめったら横行する。厄介なのは、その国のイデオロギーは人権を平然とないがしろにし、あまりにも無慈悲に人命を殺めてきた歴史的事実を孕む国であることだ。チベットやウイグルの悲痛は今以て進行中だ。
悲しいことにこの島は、いつの世も地勢上の負の宿命を背負う。
80年前の幼き日に艦砲射撃から逃げ惑った思い出を私の父は語ってくれた。そして父も母も、マラリアに震えながら目の前で身内が亡くなる様をただ見守るしかなかった体験を持つ。大人も子供も高熱に震えながら大半が栄養失調で亡くなっていったのだった。
戦争なんて真っ平御免だ。なぜなら、それが一番酷(むご)たらしいことだからだ。
日本の憲法前文も9条も素晴らしい理念を語りはするが、もしも敵が命を奪いに攻めて来たらならばどうすべきかへの明白な言及がない。平和を希求する全ての諸国民の公正と信義に信頼して生きる道を決意するのであれば、我らは丸腰となって左の頬をも差し出すべきではないのか。護憲を声高に叫ぶなら、武器は一切持たず、たとえ肉弾で砕けたとて最後は魂で立ち向かい魂で全てを凌駕する者となるべきを訓(おし)えておいた方が良いなどと、そんな差し迫った政治的議論を今の時代の空気はきっと好まない。
本音を言うと、僕は心のどこかでいつも政治に失望しているし、嫌悪すら感じている。
腹を探りあったり、裏で工作したり、嘘を吹聴したり、強権を強いたり、結託するマスコミだったり、そんなのは僕は苦手だし御免被りたい。
例えどんな火の粉が差し迫ろうとも、僕は僕の小さな日常を丁寧にやり過ごすだけで精一杯なのだ。
政治とは元来、世間の片隅で過ごす大半の小さき人々の日常を擁護する仕組みであるべきだろう。
今の政治はあまりにも大きくなり過ぎて複雑で強権で、時に当たり前の真実が追いやられてしまう。
人間が心に囲う魑魅魍魎が噴出し跋扈するのが今の政治世界に見えて仕方ない。
大きく生きようが小さく歩もうが、泣いても笑っても人は所詮、心の存在だ。
心を豊かに通わせ合える人が一人でも側に居れば、どんな困難をも乗り越えて行けそうに思える。
そんな小さな生活圏内で日々の暮らしに埋もれて生きることを余儀なくされる か弱き大人である私ではあるが、たとえ今、世界が終わろうとしていても、私は私の今日の生業に心を尽くすしかない。
そして黙して小さくではあるが懸命に世界の平和と安寧を祈りつつ、天の声に耳を傾けながら静かに暮らしを綴りたい。
沖縄戦の終結は、1946年の春。
私が生まれたのは、その17年後。沖縄の本土復帰は、それから更に26年後の1972年のこと。その復帰も50年を越えた。
私の小さな商いの歳月は、ようやく今月で19年。だけど、歳月の本質は長さではないと思う今日この頃。自分の純真な心と向き合いながら思い残すことのないようにこれからも日々精一杯。そんな日めくりカレンダーを私は私の先祖から血脈として受け継いでいることを忘れないようにしたい。