雨の日に物思う
「見る」という行為は、実は
「見られている」という前提があって
成立している行為なのではなかろうか?
雨の日、俯き加減に歩みながらも、
時折ふと気配を感じて
目を上げることがある。
存在はそれが、命を伴うものであれ、静物であれ、
そこに在ることを主張する。
だとすれば、その対象を私が見つけて「見た」のではなく、その対象によって私が「見られている」が故に気づかされて「見た」とは言えまいか?
そも存在は、存在せしめられた対象的立場なのであって、
絶対に存在の主体格にはなり得ない、
というのが根本原理だ。
私の物心は、
物心がついた時点で既に備えられていたのである。
故に私の眼差しは、
実のところ世界からの眼差しに基づいて
成り立つのである。
存在に宿るものへの感応体としての私。
この着想は存外大事なことで、
私は見られているから気付く、
問われているので考える、
託されているので行う。
それが私という存在が確定する基盤。
故に人よ、奢ることなかれ。
この世界には何ひとつとして私が自分勝手に所有して良いものなどなく、
全ては託され、問われているのである。