始まりと終わり
最悪は、最善への転換の気運。
あちらとこちらが反転する好機。
あの世とこの世の大天地返しの時代。
あの世を手助けする時。
どう表現すべきかは、難しい。
これは、夢の中でのビジョンだから。
歴史的な統計の事実として、
今日まで一体どのくらいの数の人類が生まれ、そして死んでいったのだろう?
(一説によるとそれはおよそ1080億人であるらしいが)
そんな累積の果ての今日の私の命だ。
さて、では今日までの1000億の人々は一体どこへ逝ったのでしょう?
人は死んだ時、霊魂が旅立つと言う。
その実体の在りや無しやの議論は一先ず擱(お)くとしても、人には霊性と言うべき感性が具わる。
人は万物の霊長とも言われ、
経験的に確かに人は霊妙にして不可思議な要素を具え持つことからして、他の万物とは一線を画する存在だろう。
心と体の統一体としての人に具わるこの霊性に、向き合う人、毛嫌う人、どうでも良い人はいるにしても、やはり私は真理を知りたい。
私が生まれてきたわけ、そして死とは何か?
目に見えない心の要素と目で見える体の要素との統一体としての私自身のこの二重構造を
今日の科学の知見は、この宇宙を構成する最小の素材(素粒子)がまさにこの二重構造体に則していることを示し始めた。
それは、この宇宙の始まりと終わりを解説する糸口にはなるとしても、ただし、その知見は今ようやく全体の3%ほどであるらしい。
始まりと最期のことはいまだ固く閉ざされているのだ。
宗教の言葉に頼ろうと科学の言葉を借りようと、人類の認識はまだまだその程度にしか至っていないのが現状だ。
それはそれとして、時代性と地域性の如何(いかん)ともし難い制約の中で、私は私に具わる霊性と知性とを最大限に駆使して、この世間の片隅で精一杯に考えたり、祈ったりしながら心の格闘を繰り返す。
「旅立った千億の魂が生きたかった日々を、今の私が生きている」とするならば、人類の歴史とは先人たちからの申し送りの歴史だ。
「しあわせ」になりたかった千億の人々の魂の累積の果てに私の命は今日(こんにち)生まれた。
なので、私はしあわせになりたかった先人たちの後押しを受けて今日(きょう)を生きている。
私の今日の過ちは先人たちの過ちでもあり、悩み苦しみもまた然りである。
だからこそ受け止めて私が超えて行かなければ。
そんな私のしあわせを先人たちもまたきっと必死に後押しをするに違いない。
だから、
最悪は、最善への転換の気運。
あちらとこちらが反転する好機。
あの世とこの世の大天地返しの時代。
あの世を手助けする時。
真の「しあわせ」とは、
宇宙の始まりとそれ以前のところから書き起こされる文脈からでなければ、結局何の解明も達成出来ないのではなかろうか。
宗教の言葉を借りるなら、
「汝、神の国と義とを求めよ」となる。
「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」との祈りが実を結ぶ時。
「喜びを分かち合おうとする純心で無垢な情的衝動」こそを原動力としてすべては始まったと私は考える。その始まりの動機は至ってシンプルに違いないと。
それを達成する為に、私たちは愛を学ぶ。
始まりと終わりは愛により完結する。