シンプルに生きることこそ
「武器」=人を殺す為の火器。
この表現が感情に走った言葉と言うのなら、
自分と愛する者たちを守る為に
敵に向けられるべき刃(やいば)、
とでも表現しましょうか。
核や大がかりな軍備があろうとなかろうと、
人は足下に転がる石くれを持ってでも敵を打つ。
人心に巣食うこの習性を克服出来ない以上、
或いは、無法者や無法地帯が
この世のそこかしこに現存する以上、
刃は常に私の手元で磨かれなければならないのか。
皆さんは、どうお考えですか?
今、戦後70年という時を経て、
そろそろ、先の大戦を実際に体験された方々も
その大半が鬼籍に入(い)られて、
戦争というものの生々しい記憶が
歴史の記録としてのみ語られる時代となってきました。
戦争を実際に知らない子供たちが
世の中を為政する時代。
つい先日、ある方のブログで取り上げられていた話題に
僕は少なからず衝撃を受けました。
http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/newsanswer/newsl/post_89837/
この6月、日本で初めてとなる「武器の商談会(見本市)」が
大々的に行われたというトピックです。
これは、これまでの「武器輸出三原則」の政府見解に対する
大幅な規制緩和(その呼称も「防衛装備移転三原則」と
改められました←昨年4月に閣議決定)を受けてのイベントで、
日本政府の肝入りの下、日本と友好関係にある諸外国(欧米主導の陣営)
が賛同し歓迎し参加する武器の大商談会となった模様です。
原発同様、武器の取り引きもまた巨万の富を生みます。
そういう意味では、これはアベノミクスの
堅固の一本の矢が放たれたことになるのでしょう。
これで晴れて日本も武器商人の仲間入りを果たし、
同時に平和貢献、国際協力の責務も果たし
我が国の安全保障にも貢献しました。
この現実に喜べないのは僕だけでしょうか?
僕は正直言ってとても恐ろしい。
世界の平和の為、日本の将来の為と言って、
迫り来るやもしれない目の前の敵に向けて備えを為す。
一見正論に見えるこの備えが、
本当はとんだ見当違いであるということはないのでしょうか?
本当は、
世界はとても巧妙な中央集権体制になっていて、
そして実はそこに、戦争を望む者達が居るのではないのか、
と僕は見る。
利権を持つ者達(或いは、覇権を握る者達)
の巧妙なネットワークが
世界中に張り巡らされていると言うのが僕の見立て。
これは、都市伝説の類いを語りたいのでは無く、
現実のこの世界の仕組みの話。
だから僕たちは本当の敵を見誤ってはならない。
テロも含めて、今世界はそこいらじゅうで火の粉が舞う。
火器をもって火器を治めようとしても
それはただただ連鎖の火達磨にしかならず、
火器を供給する者達が潤うだけだ。
どんなに紛争の絶えない無法地帯があったとしても
そこには、血も汗も涙も笑顔も家族の為に捧げる
愛しき人々の暮らしがあるのだ。
今地球上には70億を超える人々が暮らす。
その人々が全て、先進国並みの暮らしを
求めるのなら、地球は疲弊する。
決して表には出てこない利権を貪る連中は今、
その70億の内の相当数を
切り捨てようとしているのではないのか?
巧妙に富と平和を持ちかけては紛争地帯をけしかけて、
果てしのない不毛の闘いを促す。
そんなことに実はこの国も加担させられているのではないのか?
集団的自衛権を行使して支援したアフガニスタンは今、
荒廃の極みにあるという現実をもう誰も省みない。
僕たちは本当の敵を見誤ってはならない。
僕たちに出来る唯一のこと。
それは、
目に見える敵に対しても
目に見えない敵に対しても
非暴力不服従で立ち向かうこと。
自分の日々のシンプルな生活にこそ
絶対の価値を見出すこと。
暮らし向きが良いとか悪いとかでなく、
心から愛し合える家族を持ち、
心から信頼し合える仲間を得て、
丁寧に心豊かに暮らしを紡ぐことに
全力を尽くす。
生きるとは極めてシンプルなこと。
もし理不尽にも敵が攻めてきたなら、
その時は、
母は子を強く抱きしめ、
父は仁王立ちになって前に立ちはだかり、
両手を広げて、丸腰で、敵を睨み付ける。
後がどうなろうかは、その時の事。
僕は、どこまでもシンプルな生き方にこそ
命を賭ける。