エマ通信 3月号<前>
3月7日(水)
【人は、味わう生きものである】
「我思ふ、故に我あり」と、人間の存在証明としてのたまわれたのは、
かの高名な哲学者デカルト(仏、1596-1650)さんでした。
しかし、マスターはあえて申し上げませう、「我味わう、故に我あり」と。
人間の存在理由は、「味わう」事にあると思っております。
この「味わう」とは、単に食べるという意味合いにとどまらず、
「情的(感覚的)な味わい」ということです。
人が見たり、聴いたり、触れたり、嗅いだり、味わったりと、
五感(もしくは六感)を通して接する事象には、必ず常に情的な味わい
(あるいは感覚的印象)が伴うという事実。
こればかりは、疑いようのない真実として、生きている限り、一生涯私につきまとい続けます。
最近では、脳科学者たちがそれを「クオリア」=「質感」という用語であらわしたりします。
例えば、晴れた冬の日に、寒いのをちょっと我慢して外に出てみます。
すると、世界の息づかいが、質感として私の心に生き生きと感じられるのがわかります。
冬枯れた木立の凛とした立ち姿、ほほに沁み入る冬の風、
季節はずれの風鈴の音、
草木のにおい、古い路地に漂う気配…。
私たちの脳は、感覚的な味わい、すなわちクオリア(質感)を通して
この世界を捉えていることが分かります。
私の頭に中に収まる「脳」という臓器。
このたんぱく質や核酸を素材として出来た神経細胞の集まる物質にすぎない脳に、
何故、こんな情的味わいが、すなわち、心が宿るのか。
究極の神秘であると思います。
明日につづく。