この一杯の幸せの為に
商売人の基本中の基本は、
お客様への感謝でしょう。
『いらっしゃいませ』でお迎えして、
『有難うございました』でお見送りする。
お店を開ける限り、
その言葉掛けは毎日続きます。
マスターも商人(あきんど)の端くれとして、
この言葉掛けを日々繰り返し続けて、
早8年が経過しました。
そしてつい先日のこと。
いつものように
「有難うございました」と
お客様を送り出したその刹那、
カウンターにお座りの
常連の長老様からこんなご質問が
マスターに飛んで来ました。
「あんたその言葉、心から言いよる?」と。
マスター、そのお言葉に不意打ちを食らって
一瞬たじろぎながらも、辛うじてお答え致しました。
「も、もちろんですとも!」と。
それ以来というものマスターは、
「感謝する」って一体どういうことなのだろうと、
昼も夜も夢うつつに思い悩んでいるところです。
この「ありがとう」という表現。
言葉で言うのは簡単です。
深々とお辞儀も付け足せば、
行いとしても立派に合格です。
けれどもやはりどこかまだ足りない気がします。
その言葉も仕草も、
単なるパフォーマンスに堕していないのかと。
この「ありがたい」と言う言葉。
よく教示されることですが、
もともとが「有り難い」と表されました。
つまり、「滅多になく尊い事」故に「喜ばしい」、
という思いが、
その有り難い慶事をもたらしめた尊き何ものかに対する感謝
となって、「ありがとう」となった、と。
ふむふむ。
「有難う」の解釈を深めて行くと、
「今在る事を当たり前と思うな」と言う
人生の根源の真実に行き当たります。
考えてみれば、「今私がここに在る」という「事実(=リアル)」
をもたらしめたその背景を思う時、
どれだけの奇跡的な出来事の綱渡りがそこにあったか、
という感慨に行き当たります。
私という存在を生むに当たって、
どれだけの時間の経過と(宇宙物理学によると 137億年)
幾億兆のやり取り(関わり合い)が交わされて来たことか、と。
そういう膨大(ぼうだ)の歴史があったことに想いを馳せれば、
今ここでその人と出会い袖触れ合ったことが
どれだけ尊い奇跡であり、
どれほど待ち侘びた出来事であったか。
その感覚をもっとありありと感じ取りながら、
その上で初めて、「ありがとう」と言いたいものです。
日々の暮らしに祈りを深める、
先ずは、そこからの出発かな
とも思います。
珈琲屋としては、
そんな想いでカップを
満たすことが出来ればと思います。
遥か昔の
全ての創まりの出発点にあった
唯一無二なるその一点。
さてさて、その一点には、
大いなる意思の存在が
果たして在るや無しや?
そこにあったであろう思いの本質。
人生は、そこに行き着き
そこと同期する過程かな。
言うは易し。
行うも易し。
心遣いこそ
甚だ難し。
修行の旅路は日々続く。
全てはこの一杯の幸せの為に。