八重山に生まれて
1963年の8月に、石垣島の真栄里村で僕は生まれた。
その2年後、父は島を出る決断をし、大阪の市内へと移り住むこととなる。
そして、僕が7歳になる春(1970年)にはじめて家族四人みんなで里帰りをした。
その時の真栄里の海はまるで竜宮城であった。母の生まれ島鳩間島の海は天竺の様であった。
海はどこまでも澄み渡り、群生する珊瑚のグラデーションに目が眩み、
所々にぽっかりと割れた水底の裂け目は限りなく漆黒で吸い込まれそうで子供には空恐ろしかった。
海は浅瀬も潮溜りも色とりどりの生き物で溢れかえっていた。
鳩間の中森ではオジィから古典民謡の鳩間節を教わった。
戦争で両眼の潰れた皺枯れ声のオバァは、涙を流して僕を抱きしめてくれた。
それはまだ本土復帰(沖縄返還)前のふるさと八重山での幼い僕の鮮烈な記憶。
その次に帰ったのは中学に上がる前だったか、
その時の記憶はなぜかあまり鮮明ではない。
ただ以降、帰省するたびに海の色がくすんで行くのをなんとなく感じていた。
海岸線が大規模に剥(へず)られていったのは80年代に入ってからだろうか。
こんな小さな離島にアスファルトの一周道路がなんで必要なのだろうと、怒りを覚えた。
お陰で赤土が海を染め、アスファルトには生き物の死骸が無惨に転がった。
沖縄の復興を謳った開発行政は、自然への配慮を欠いたまま土建業をおおいに潤した。
幼い僕の記憶に刻まれた海は、今はもう見る影もない。
海亀は産卵場を失い、ジュゴンの人魚伝説は今となっては空々しい。
併せて昨今は異国からの漂着ゴミが夥しい。
今更、辺野古を埋め立てたところで失われた自然は大きすぎて、もうどうでもいい。
自然を護れと言うのなら、50年前から声を上げて欲しかった。
米軍基地のある所は、沖縄本島ではどこも一等地だ。
それが返還されるのなら、そんな良い話はない。
だからと言って、米軍がここから完全に撤退してしまえば、国防が損なわれるのは明らかだ。
昔、魚釣島と言って釣り人が悠長に糸を垂れた尖閣は、今やお向かいの国の核心的利益の島となり、物騒な船がやたらめったら航行する。
その国のイデオロギーは人権を平然とないがしろにし、あまりにも無慈悲に人命を殺めてきた歴史的事実を孕む国。チベットやウイグルの悲痛は今以て進行中だ。
悲しいことにこの島は、いつの世も地勢上の負の宿命を負う。
わずか80年ほど前の幼き日に艦砲射撃から逃げ惑った思い出をうちの父ちゃんは語る。
戦争なんてもう真っ平御免だ。
憲法前文も9条も素晴らしい理念を語りはするが、もしも敵が命を奪いに攻めて来たらばどうすべきかの言及がない。
平和を希求する全ての諸国民の公正と信義に信頼して生きる道を決意するのであれば、我らは丸腰となって左の頬をも差し出すべきであろう。
護憲を声高に叫ぶなら、たとえ肉弾で砕けたとて最後は魂で戦い抜き魂で勝つ者となるべきである。
かつてその道を貫いたイエスキリストの様に。
僕は今沖縄に住まないので、今回の住民投票には関わりがないが、もしも投票権があったなら、投票には行かない。
そして、「放っといてくれ」と言う。
反対を煽り立てる活動家にも現政権にも共に辟易するのだ。
腹を探りあったり、裏で工作したり、でっち上げたり、そんなことは僕は苦手だしご免だ。
たとえ他所の国の兵隊さんが銃剣をちらつかせようと
厄介な重火器を打ち上げようと、
僕は僕の小さな日常を丁寧にやり過ごしつづけるだけで精一杯である。
泣こうが喚こうが、大きく生きようが小さく歩もうが、所詮人は最後は心の存在だ。
心を豊かに通わせ合える人が一人でも側に居れば、
どんな困難も越えて行けそうに思える。
所詮は小さな生活圏内で日々の暮らしにうずもれて生きることを余儀なくされるか弱き大人である私ではあるが、
たとえ今、世界が終わろうとしていても、私は私の今日の生業に心を尽くす。
そして黙して小さくではあるが懸命に世界の平和を祈りたく思う。