エマ通信 7月号(no,73) 表紙記事
「いつ(五)の世(四)までも受け継ぐもの」
マスター、先月初めて六連休を取り、
生まれ島である石垣島に帰省をしました。
お客様には大変ご迷惑をおかけ致しましたこと、
先ずはこの場を借りてお詫び申し上げます。
さて、マスターが石垣島で生まれたのは1963年のこと。
その時代はまだ沖縄全体がアメリカの統治下にあったので、
と言うことはもともとマスターは
America 国籍の人だったわけですね、Oh、Yeh!
もちろん今も昔も英語は、からきしダメですが^^;
でもね、ウチの家では小学校にあがるまで、
冷や水のことを 普通にアイスワーラーと
言ってました(^^)
ウチの父親が一大決心をして
家族全員を引き連れて大阪に出て来たのは、
マスターが2歳の時でした。
ですので、マスターが物心ついた頃には
既に大阪にいたわけです。
それ以来、ずっと大阪で育ちましたので、
わては関西人でおまっ( ´ ▽ ` )ノ
マスターが小学校一年生の春休みに
初めて家族全員で里帰りしたことがありました。
当時はまだ沖縄が本土復帰前だったので、
パスポートが要るは、予防接種(たぶんマラリア予防)も必要、
円を$(ドル)に両替(1ドル=360円時代)しないといけないしで、
手続きが大変だった事を覚えています。
今から43年も前の話です。
あの頃はまだ石垣までの直行便なんてなかったので、
那覇で乗り換えて、双発のプロペラ機(当時の南西航空)で
石垣島に渡りました。
父親が生まれ育った所は、
島の南岸に位置する真栄里と言う小さな集落。
村に足を踏み入れるなり、
そこかしこから「永金(えいきん←父の名) 帰ったね!」と声をかけられ、
「永金のファー(息子)ね!」と、
たくさんの村人に抱きすくめられて歓待されたのを覚えています。
丁度サトウキビの収穫の時期で
あちこちのサトウキビ畑を歩き回りながら
自分の帰省を知らせて回る嬉しそうな父の姿が
今も焼き付いています。
あの時代は、本当に自然が豊かでした。
もちろん今でも島は美しいけれど、
マスターの幼い記憶を掘り起こして比較をした時、
その彩度の違いは歴然ですね。
海のグラデーション、
その透明度合い、
泳ぎ回る熱帯魚の種類と数、
珊瑚の規模。
手付かずの圧倒的なスケールの自然が広がっておりました。
1972年に本土復帰が果たされ、
以来、日本の高度経済成長の波に揉まれて、
沖縄も随分と開発が進みました。
ウチの父も母も大阪で遮二無二働いて
僕ら(姉と私)を養い育て、
小さな持ち家も建てて、
ようやく定年を迎えた次第です。
定年後間も無い頃は、あんなに石垣には帰らんと
言い張っていた両親ですが、
70歳を越えたあたりから望郷の思いが募って来たようで、
結局、8年前にUターンを果たしたのでした。
そんな父も今、80の齢を越えて
数年前から認知症を患うようになってきました。
今の所は母の介護の下で、
なんとか日常生活をこなす程度には出来ております。
ありがたいことに体はすこぶる元気です。
島の空気と食べ物がよっぽど合うのでしょうか。
背中はシャンとしているし、
体の筋肉も驚異的な位しっかりしているし、
力仕事ならマスターも敵わない程です。
時折まだらにマスターの顔を見ても
誰だか思い出せず混乱する事もあるようですが、
なんとかまだ記憶の糸は途切れずにいるようです。
そうですね、身体的にはあと20年は元気かも。
記憶の方は残念ながら、海の向こうのニライカナイへ。
そんな父に、周りにいる私たちがサポートしてあげられること。
暮らしの一コマ一コマを少しでも充実させてあげられるよう。
笑顔で心楽しく暮らしを送れるよう。
たとえ記憶が抜け落ちてしまうとしても、
情の味わいの豊かさを最後まで感じ取ってもらえるよう。
今回の帰省中、父を幾度となく屋外へと連れ出しました。
ヤームトゥ(本家)へのウートートー(霊前に手を合わすこと)、
友人が招いてくれた食事会、
カラ岳〜玉取崎ドライブ、
梅雨明けの真栄里の海辺への散歩など。
父の場合、その都度素直に陽気に楽しんでくれる
ハッピーなボケなので助かっています。
さて、今回の帰省でマスター、お宝を一つ
島から持ち帰りました。
それは、三線(琉球蛇皮線)です。
ご存知の方も多いかもしれませんが、
沖縄では家ごとに代々受け継がれる三線が
床の間に飾られております。
ウチの父には男兄弟が5人いて、父はその四男坊なのですが、
たまたま父しか三線を弾く者がいなかったので、
自然と父が受け継ぐこととなりました。
そして、その父ももはや(高齢のため)三線を弾くに能わず、
結果、仲大盛家の三線を引き継ぐのは
マスターしか居ないというわけです。
マスターはギターで弾き語りをするし
沖縄音楽も好きだし、
きっとお茶の子さいさいで三線が弾けるように
なりますよと、
皆さんに言われるのですが、
これがそんなに簡単ではありません。
なんちゃってレベルならそれなりには弾きますが、
マスター、工工四(クンクンシー)全く読めないし、
何よりも、向こうの民謡の節回しや発声法、
これが至難の技なのです。
西洋音楽に慣れ親しんだ者には
太刀打ちの出来ない土着の感性とでも言いましょうか、
要は「島唄のアイデンティティ」ですね。
それはそう簡単に掴めるものではありません。
きっとライフワークになることでしょう。
八重山の伝統工芸品に「ミンサー織り」という綿織りがあります。
五数と四数を表すマス目柄が延々と織り込まれている絣の織物です。
この「五」と「四」を営々と繰り返すことで、
「いつ(五)の世(四)までもこの想いは変わりません」
という意味を表しますので、
想いを伝える織り物として八重山では昔から重宝されてきました。
老いるということ、
時代を生きることの意味、
暮らしを成り立たせる努力、
生活の見通し、
価値観の置きどころ、
生きてく労苦…。
人は、日々去来する数多の想いを抱え込んで生きていきます。
マスターも類に漏れず七転八倒の日々ですが、
今回の帰省を終えて時折、
島の風情を思い起こしては立ち止まることにしています。
いつの世までも受け継ぐもの、それは島の情愛。
島唄を唇に三線を奏で、
島の美ら海 美ら人たちを心に思い起こし、
そんないつの世までも変わらぬ島の情愛を励みに
今日も美味しい珈琲をお淹れしたいと思います。
ミンサーの文様を眺めつつ。
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